川南へ遠足

いいね、ご近所旅行、という結論。

実際、訪れてみて初めてわかることがたくさん!(当たり前か)

 

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いきなり余談で恐縮ですが、宮崎市内から川南へ行くのに、佐土原まで一ツ葉有料道路を使った。相変わらず景色や空気が素晴らしい。150円でこれ体験できるのは、お得だわって私はおもう。一気に非日常感。

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川南町役場で、冊子をいただく。

 

それ片手にぷらぷら町を散策する前に、実は、今回いちばんのときめきスポットに出会う。

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この横に繋がって、壮大な剥き出しの倉庫があるのだけど、それが私にはすごく落ち着く絶景。図書館やサンA会館を背に、役場方向へ向かうこの交差点が、静かに圧巻。

 

観光地なわけではないので、住民の暮らしが普通にあるのも、なんかいい。落ち着くー。

 

ぷらぷら歩く。

社協の冊子「どんげね」もゲット。

のどかな町のスピーカーから、ワンオクの壮大な新譜が響く。なんていうか、ギャップ萌。

 

「散歩のコツは、スポットより流れを重視すること」by 岡美里さん@平野紗季子連載 通称 犬かよ

 

次はゆっくり食事したい。

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こうして、冊子にきっかけをもらって実際に訪れてみると、誌面にはなかった自分なりの発見や感動があり、御の字にもほどがあるわよと嬉しい悲鳴。

 

ゲシュマック、サンA、まるみ豚、布袋、三原さん家の電飾、くらいしか知らなかった川南。私にとっては大分までの通過点でしかなかった町の印象が、すさまじく変わってきている。

 

養豚のイメージが強かったのだけれど、冊子で海の幸の魅力にも興味が。競の時間帯とか、知らないことだらけ。川南は豚で、高鍋はカキで、魚はやっぱり日向や北浦?とか、近くに住んでいるがゆえに獲得してきた浅い情報が、勝手に固定概念をつくってしまうのだよね。あとは「パケ十」(as in 「ぼくの鹿児島案内」シリーズ)もおどろくお土産ページとか、脳内異化作用の嵐。

 

くるりカフェきっかけで知ってはいたけど結局行けずじまいの「トロントロン軽トラ市」にも、行きたいねえ。

 

 

「町・海・大地 川南町の旅」

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読者の次のアクションにつながる表現体は、素敵ですね。

(これ読んで、すぐ川南へ行った話は別枠で)

 

誠光社さんのインスタで知り取り寄せた、甲斐みのり「旅のかけら」。

おまけで付いてきたのは、宮崎市内で暮らす私には近くて遠い、川南町の冊子。

 

甲斐みのりという、愛あるトリックスターの視点と言葉を手に入れた川南。抑圧の効いた偏愛。品ある文法。大人だなあ。いい冊子だなあ。しみじみ読み入る。

 

流行とはいえ、もはや、お腹いっぱい気味の、地域をdigするシリーズ。

社会心理学いうところの「他者を通して自己を知る」、文化人類学いうところの「周辺による中心の活性」。

 

しかし、この冊子には、ちゃんと愛があった。

そこに、惹かれた。

 

こういうのって、「出して終わり」じゃ、もったいない。

冊子が、人や店や町に与える影響に、すごく興味がある。

 

パティスリー あ

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『川南町の旅』という観光案内の冊子があると知る。甲斐みのりさんのインスタ投稿(2018年10月30日の)遡り、ラブレターのような文章に心打たれた洋菓子店へ行ってみた。冊子を読む前後で印象が変わるかもしれないので、まずは未読で。

 

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机いっぱいに広げられた冊子祭りの様子をみて、「ふふふ、紙の形をしたお祭りですね!」と浮かれているのは私だけで、ご主人は至極まともに冷静だった。

 

👨‍🍳「あれですよね、甲斐さんの"子分"には、有名だからとか人気だからとかではなくて、自分で確かめたいって人が多いんだネ」

私「子分?!」

👨‍🍳「フォロワーって言うんでしょう?ぞろぞろついていくんでしょう?」

私「!(...たしかに!)」

👨‍🍳「松田聖子も歌ってるわ」

私「I will follow you 〽︎赤いスイートピー💡」

👨‍🍳👍

私👍

 

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そして「地味でしょ、ふふふ」「美味しいかはわからないから」「30年前の配合だから(レシピ)」と謙遜の極みで紹介されるケーキたち。脳内に渦巻くこの感動は、ノスタルジーだけによるものじゃないはずだ。

 

もう最悪不味くてもいいと思って、その場でチョコレートのケーキをいただいてみた。美味かった。

 

甲斐さんのインスタと冊子を照らし合わせ、実物をこの目で確かめて、行間を勝手に解釈し、わかることがたくさんあった。

 

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「写真撮っていいですか?」とたずねると、「いいけど、撮ってどうすんの」と真顔でご主人。ほんとに撮ってどうすんだろうね?と素人のミーハーを省みて、頭の上に咲いた花を引っ込めて(比喩です)、でも撮らせていただいたのは、長年かけて風景と化してきたファンシーの数々。

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一筋縄ではいかない魅力を、持ち帰ったケーキや焼き菓子を食べながら反芻した。おもしろい遠足だった。

 

「いつも」は「いつまでも」じゃないダヨネ。

 

 

爪を、つんもろた話

デイサービスの方が爪を切ってくれたと、嬉しそうに母が話す。

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きっとご迷惑をお掛けしてると存じますが、お世話になってる施設の方たちは、みな本当に優しいエンターテイナー。ありがたい限りです。いち認知症患者への接し方という意味でも、勉強になる。(声かけ、促し、頭ごなしに否定せず提案する、根気強く繰り返す、まず同意や共感を示す、意思の尊重、ユーモアを忘れない、etc.)

 

 

母は、デイサービスを「学校」、職員さんを「先生」と呼ぶ。送り届けてもらった後は、墓参り並みに頭を下げて拝む勢いで、礼。おりこうさん!(子ばか)

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以前と比べて、できなくなっちゃったことはたくさんある。適当な言葉が出てこない場面も、何言ってるかわけわかめな場面も、まあ、ある。でも、感謝の心や素直な情緒はあるし、むしろ空気を読む力は研ぎ澄まされてる感すらあるし、コミュニケーションは取れています、という記録。読取と解釈の嵐。おかげさまで、本人が至って明るく元気なのが救い。面白味も増し増し。ビバ、あっけらかん。

 

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なんじゃこら

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日常の風景と化して、もはやなんとも思わないあれこれも、改めて見ると、たしかに「なんじゃこら」だったりする。なにかと行き届いてるなあーと、閉店後のショーケースを眺めて、異彩を放つ、なんじゃこら3連発に遭遇。

 

橘通店にいらした、圧倒的存在感を放つ、司令塔みたいな名物おばあちゃんは、お元気だろうか。売場の片隅でストレッチしながら、がんがん指示をとばしていてる勇姿を、何度か拝見した。

 

 

「なんじゃこりゃ」ではなく「なんじゃこら」だったと、今の今まで知らなんだ。うなぎみたいな「ら」

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「栗と、苺と、クリームチーズと、粒あんが食べたいなァ」「お父さん、そんなによだれたらしてないで、お菓子の日高さんに行ってくださいよ」(ラジオCM)

 

 

小さい頃、よく宮崎のお土産でもらっていた謎の大福。 FM宮崎を拾う地域で、ラジオとともに育ってきたので、たしかに「お隣の県=お菓子の日高」というイメージだった。

 

 

CMの音源がないか検索していたら、先の司令塔おばあちゃんがあっさりヒットしてきた。大正生まれの、納得の取締役だった。地元メディアのインタビューに、生きた金言の数々。お店に入ったら「ま、茶いっぺ」のもてなしがあったのも、すぐ使える割引券サービスも、彼女のアイディアだったのかしらん。いろいろ、にわかに励まされました。

日高信義商店取締役 日高美恵子さん

https://miyabiz.com/keyperson/item_7062.html

 

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【読書感想】くどうれいん「わたしを空腹にしないほうがいい」

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瑞々しくて、甘酸っぱくて、なんかもうどうしようもなく青春だなぁーと、きゅんきゅんしながら読んだ。緩急織り交ぜた文体は実に読みやすく、俳句とエッセイの大喜利みたいな関係も味わい深く。

 

おばあちゃん、かわいいなあ。

方言、いいよなあ。

 

インスタでその存在を知った、歌人 くどうれいんさんの本。

 

山田詠美のたとえを借りると、「書かずには、自分が自分じゃいられない人種」って、古今東西、手を替え品を替え、いるんだなと。

 

対談ページの「注文」ていうのが、よかった。

 

 

追記。

あれを「青春だなぁー」と言ってしまうあたりに、自分の加齢を感じる。なぜなら、その渦中にいた年頃の私自身が、それを青春とひとくくりにされることに潔癖なくらい反発していたことを思い出したから。「思春期や青春一般の話ではなく、これは私個人の話だ」みたいな文を書いていた記憶あり。今となってはそれ自体がもう青春。思えば遠くへ来たもんだ。順調に図太いオバタリアンへ成長した。同時に、あの頃に比べるとずいぶん生きやすくなった。当時の筆者をぎゅっと真空パックしたような、くどうれいんの文章に触れ、そんなことまで思い出したのだった。それくらいみずみずしくて鮮やかな本だったってことです。

 

美しさは若さではないが、若さは美しい。